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更新日:2025年4月24日
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本校は、昭和22年に千葉市立第一中学校として開校しました。当時は都小学校、千城小学校、都役場跡の3か所に分散して授業を行っていたそうです。
昭和23年に地主の方から無償寄付を受け、現在の場所に校地が決定しました。戦後間もない混とんとしていた時代でしたが、地域の方々の「教育こそ復興の原点」「おらが学校を作り上げよう」という熱い思いが、延べ2,500人に及ぶ地域の方の献身的な奉仕につながり、整地が行われたとのことです。以来、70有余年以上にわたり、結束力・教育力の高い地域からの支援をいただいており、そのことへの感謝の気持ちを持ち続けることが、本校教育活動の基礎となっています。
昭和26年に現在の校名に改称され、現在に至っていますが、地域との連携を重視し、生徒の主体的な活動のもと、新たな歴史と伝統を創造する校風は、今も引き継がれています。
本校の校章は、校名の改称(昭和26年、千葉第一中学校から現在の校名へ)された当時、美術を担当していた里井寿教諭がデザインしたものです。
本校の校章は、白色の「加中」の文字とそれを囲む若葉でデザインされています。白色の「加中」は清楚純朴を、若葉は多くの史跡と自然に恵まれた学区と生徒達が将来に向かって伸びていく力をイメージしています。
本校の校歌は、昭和32年3月9日に制定されました。それまでは、校歌がないままであったとのことです。昭和31年、当時の3学年主任であった江成正義教諭と佐野たけ教諭が中心となり校歌をつくることが提案されました。両教諭は、「情操教育の一環として、本校にふさわしい校歌をつくろう」という想いがあったとのことです。
校歌は、作曲家の平井康三郎氏、作詞家の勝承夫氏に依頼しました。本校にふさわしい校歌をつくるために、学校とPTAは、両氏を招いて学区の名所旧跡を案内し、座談会を開いて学区の地理的・歴史的な説明をしたとのことです。また、校歌作成にかかる費用の一部は、佐野たけ教諭を中心に行った廃品回収や本校周辺に咲くユリの切り花・手縫いの雑巾の販売などで得られたものが充てられました。
昭和32年3月9日に行われた「校歌発表会」は、平井康三郎氏と勝承夫氏を招いて盛大に行われました。作曲した平井康三郎氏は、最も力を注いだ「きらめく太陽、燃え立つ若葉」の歌い出しについて、お話しされました。歌い出しの「ドミソ、ミソド」の旋律は、トランペットのファンファーレを表現しており、校歌は「加曽利中の生徒たちよ、意気高くあれ!」という願いを込めた応援歌であると語られたとのことです。
平成28年、校歌は創立70周年を記念して混声四部合唱に編曲されました。混声四部合唱となった現在も、校歌制定当時の想いを引き継ぎ、生徒たちは美しいハーモニーを響かせています。
インターネット上の地図で、本校を検索すると「夕霧城」と表示されます。今から約900年前の平安時代末期、この場所には「夕霧城(別名「夕鶴城」)」という美しい名前のお城がありました。学校の隣にある貴船神社は、夕霧城の守護神であったとのことです。また、正門側の急斜面は城であった時の切岸(きりぎし・人工的に山の周囲を急峻な角度で削った防御施設)の名残だと思われます。
夕霧城の主は、加曽利冠者小太郎成胤。祖父千葉常胤と共に源頼朝の軍に参加し、平家との合戦で武功を挙げた人物です。日本史の重要な時期に活躍した人物が、この地にいて、「加曽利氏」を名乗っていたのは興味深いです。